幸村の妹・於楽(おらく)ちゃん。

28 8月

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みなさんご存じの、今や知らない人はいない、幸村の妹おらくちゃん。政宗の家臣と結婚したおらくちゃんのことをいいたい!
「まさむねのかしん」と、名前が不明なとこが、この夫婦の知名度の低さをものがたってるんですけど。

於楽ちゃんは、幸村の異母妹。
お父さんが一緒で、お母さんが違う、異母妹。いぼまい…。お米みたいだよね。
ごじせきこー(真田古文書アンソロジー)に、「於楽ちゃんは、伊達家の家臣のだれかの奥さんになりました、以上」ということがかいてある。
於楽ちゃんについてはほんとこれだけ。

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女子 於ラク
蓮華定院書上 おくら様
同別書 おらく様奥州陸奥様御家中へ被成御縁付候、綱徳謹テ按スルニ、おくら、おらく何レカ一方ハ誤写成ヘシ、此御女子ノ事諸系図ニ所見ナシ、

現代語訳と解説:
ヘッドライン:女子 おらくという人について
蓮華定院(和歌山県高野山にある真田家のお墓管理をしている寺)のメモには「おくら様」と書いてある。
同じく蓮華定院の別の書には、「おらく様は、奥州伊達政宗の家臣に縁づいた」とある。
綱徳(ごじせきこー編纂者)の考えでは(このごじせきこーを書いている時点で、集めた史料が既に誰かかの写しなのですが)”おくら”か”おらく”のどちらかは誤写であろう。この娘に関してはほかの系図に名前がない。

もちろん、だれも於楽ちゃんの研究などしていないので、実はこれ以上、話は展開しないんですが、以前anさんと「結婚時期はいつなんだろうねえ」という話をぼそぼそとしてたことがあるのです。
私たちがだした仮定は、1600年より前。
だって、1600年の関ヶ原以降、真田ぱぱうえ昌幸は、三成側について徳川家康を裏切った犯罪者。あわやグランデ刑(切腹)を、トール刑(流刑)にダウンサイジングしてもらってるので、1600年よりあとに、犯罪者昌幸の娘をもらう人はいないんじゃない?という話に。しかも伊達家は、家康側についているので、なおさら敵側の娘をもらう必要はないだろうと思っていました。

なので、ここで想像してみよう……!
式場は京都伏見、飛雲閣!でもウェディングドレスの新郎新婦がいるのね。新婦側にいる兄の幸村は30台半ば、年頃の妹がひょんなことで政宗の家臣の誰かと結婚することになっちゃって、テーブルにでてくるのは、メインもデザートもずんだもちで、伊達家と縁づくってこういうこと?と思ってたら、シェフがでてきて、それが政宗で、下っ端家臣レベルの披露宴なのに、大名トップが、SP連ねて歩く60万石がわざわざ厨房権握ってずんだもち配りながら、幸村にいうんだよ。「これでおまえは俺の義理の弟みたいなもんだから、つか、義理の弟だから、いや家族だ家族」とかまるめこまれてるかんじの、そういう披露宴…!
1600年より前なら、伊達家側も、真田昌幸の娘なら側室腹だろうともらっといて損はないし、家臣レベルだったら側室腹と釣り合うって考えたのかもねーとかそんな想像してたのね。

さて、さっき「真田信之」(by黒田基樹さん)を読んでいたら「そっちの解釈ありなのか…たしかに、ありかもなあ、ありなら、これは……!」という文章を発見。
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黒田さんは「四妹の妻木頼照妻と末妹の於楽は、昌幸が第二次上田合戦の結果として高野山九度山に隠棲した後の出生と伝えられている」(新信叢15巻 p.144,p.150,p152)とかいているのです。

該当する「新信叢=新編信濃史料叢書=ごじせきこー」15巻の根拠ページをみると、4番目妹はたしかに九度山生まれとかいてあるけど、於楽ちゃんのことはそうは書いてない。(手間かかるのにこうやって逐一根拠ページをかいてくれる人、ありがたい!)
ここで、根拠ページにかいてないから間違いといっているのではなく、ひとつきづいたことがあって、そういう理由で九度山生まれと黒田さんは書いているのなら、「於楽ちゃん九度山生まれ説」に私がのれるかのれないかはいったんおいといて、なるほど!と思ったことがあるのです。

それは、ならべかた。
こっちのジャンルきてからしったけど、こういう古文書アンソロって、その文章が書いてある「場所」&「並べ方」がかなり大事なのです。

いきなり女子話題になるけど、下着をひきだしにしまってるとき、独自の並べ方ないですか(笑)マニキュアでも食器でもDVDでも2.5次元のブロマイドでも書簡集でも、大事なものなら大事なものほど、並べ方に並べた人の意図って必ず入ってるよね。もちろんそんなのないって人もいるだろうけど。
基本は時系列だけど、よくつかう(見る)ものは手前とか、レアなものは一番目とか真ん中とか、あのこは必ず左にこのこは絶対右側とか。
そんなソウルがこもった痛ブロマイド集から、後世の雑な人が、ひょいと1枚抜き出して「この人はこういう人だった」とそこだけにスポットライトをあててしまったとき、並べた人からみれば「いや、僕が作ったアルバム全体で1つだから」とか、なにかの記者会見や映画とかだったら、「ノーカット版をみてからいってほしい」という意見がでてくるのは当然だと思うのね。

ごじせきこーは真田古文書アンソロジーなのです。
だから、「於楽ちゃんが九度山で生まれた」と、びしっと決め打ちでかいていないけれど、書いてある場所をみると、たしかに九度山のことが書いてあるあたりにその記述は配置されている。だから、ごじせきこーを並べた人は「同じ九度山生まれの子だからここに並べよう」とか「この順序で並べておくとだいたい出生順になるだろう」とか、そんな意図を反映させながら並べたのかなあと思いました。
黒田さんはこの解釈で、於楽ちゃんも九度山生まれに数えてるんだと思う。
あとは、私がそれにのるかのらないかなんですが、ひとまずのってみよう、と脳内からの想像notification(=通知)をONにしてみる。

notification1.昌幸は九度山にロックアウトされ中、現地妻が何人かいたんですが(一人は伊勢出身の子だってわかってる。伊勢だから真珠でいいよね。海女さんとかスポーティなかんじの子を想像してみて…!)そこから四妹ちゃんやら、於楽ちゃんが生まれたということに。
昌幸は九度山に10年ちょっといたので、於楽ちゃんが小学校3〜5年のころに、亡くなってるのね。だから、於楽ちゃんが昌幸のことで一番覚えてる記憶は、お父さんのお葬式かも。暗いわ…!喪主はこの世の終わりみたいな顔してる幸村おじさん。
で、昌幸が亡くなると、昌幸に上田からついてきていた忠臣16人衆はぞろぞろと上田へ戻っていったので、(幸村は次男坊なので九度山においてけぼりでしたね…)そのときに、側室腹ではあるけど昌幸公の娘だってことで、於楽ちゃんはまだみぬ信幸おじさまのいる上田にいったことに。だって九度山におきっぱにしておくと、鉄砲玉幸村の「ぼく、妻子どうでもいいんで!歴史に名前のこしたいんで!」にまきこまれちゃうものなあ。
となると、黒田さん推察のとおり、年頃になった於楽ちゃんの嫁入り先をみつけるのは信幸の仕事になるのよね。

九度山からやってきた異母妹を受け取った信幸は、徳川家では大罪人だけど実の父上の子だし、妹の結婚相手をどうしたもんかなーとおもっていたんだと思う。於楽ちゃんを上田においておくか、江戸の真田屋敷においておくか迷ったりもしたと思う。どっちにしろ、於楽ちゃんから関ヶ原以降会えずに亡くなった昌幸の話とかきいたりしたいし、そばにおいてた可能性大だよね。
で、江戸の真田屋敷とかにおいておいたら、お稽古事などしているうちに近所の伊達屋敷の下っ端家臣と恋にでも落ちてもらって、まあ側室腹と家臣クラスなら家格も手頃じゃないかと保護者追認となり、信幸ー政宗ラインでこの縁組みが組まれたんでは…!

notification 2.昌幸とだれか(伊勢殿とか)の子供の於楽ちゃんは、昌幸死亡後、伊勢殿にひきとられもせず、まだみぬ信幸おじさまのいる上田にいくこともなく九度山に残っているパターン。
借金だらけのお酒大好き賭け事大好きという子育て失格系幸村おじうえが面倒をみてくれるんだけど、その環境下では、普通の子供ならまがっていきそうなのに、於楽ちゃんは、不落城の昌幸の子供なので、むしろ幸村にくっついて双六(当時の賭け事ゲーム)して、幸村に勝てる子になっちゃいそう。でも家計逼迫が身にしみて育っているので、大きく勝ちはしないけど絶対に負けない。双六に碁に将棋となんでもござれの娘ゴト師になるのね。
で、幸村が借金返済のためにやっと就職するんだよね。大坂城で淀殿が「急募!秀頼様をまもる簡単なお仕事です。命かるめな牢人歓迎!」とかいうから。で、於楽ちゃんは、幸村おじうえが大坂城入りしたときに、幸村の子供達と同じように人質として大坂城にいき、大坂城炎上とともに焼け出され、伊達家に「幸村の子かよ、しょうがねえな!」とひろわれ、その縁で伊達家の家臣の妻になった…とかね。

どっちもありうるよねー。於楽ちゃんはフリー素材すぎるわ。
伊達家って家臣にランクがあって、一門、一家、一族、それ以外でわかれてるんですが、ごじせきこーに「伊達家の家中」としかないので、於楽ちゃんの旦那になった人は一族より下の家臣だったのかなあと思ってます。
家臣リストぽいものがあったので手に入れてみてみたら、これが全部筆文字でね……。奥さんの名前とかかいてなかった。いったいどうやって調べたらいいのやら。

真田家のファミリーツリー(家系図)。

27 6月

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画像はクリックすると大きくなるはず。

もう粒字は卒業しようと決めたのに、すみません……。
夏の本はB5なので、まだ……、まだマシかも…!

真田家のファミリーツリーのおもしろいところは、二つ。
ひとつめは、なんだかんだいって真田家が現代に続いていること。
続くといっても、血縁ではなくて、家の財産を税金でとられないように守る共同体として続いているんだけど。
長い目で日本史をみれば、現代の、純正や純血のほうが正統っぽいという、日本の純血好き・ブランド好き精神のほうが短いよね。
家の土地と財産守るor増やすためなら、養子・婿養子をもらいもらわれ、従兄弟と結婚上等、not嫡男男子はただの嫡男肉体バックアップ、子供に人権なんてゼロ、個性とかいう考え方がないし、そもそも家を離れて一人で生きていけるの?という社会のほうが長い。
子供が雑に扱われている世界がおもしろいなあと思う。現代の感覚の反動だよね。
それにきづかされるのが真田家のファミリーツリーだと思う。

ふたつめは、幸村のパパとして0点なところ(笑)
子供の将来に対してなんの責任感もないのが、むしろすごい。
幸信なんて大坂の陣後に生まれてるので、奥さん妊娠中だったんだよね…!
大坂城に妻子(どの妻子かは不明)をつれていったのは、大坂城側から「人質をおいてから戦場にいけ」といわれたからですが、大坂城が落城したら子供たちがどうなるかとかあんまり考えてなかったんだろうなあ。負け戦になれば大坂城で乱取りが行われることは予想できたはずで、それに対してなんの対策もせず子供を大坂城におきっぱにした可能性が高い。

乱取りというのは、日本人が日本人を奴隷にする行為で、信玄様もやった経験ありの人身売買。もちろん戦国時代にも「乱取りは早い者勝ちになって兵が上司の命令をきかなくなるから全面禁止にしよう」という考えも同時並行であったよ。(乱取られる人権の観点から禁止じゃないのが時代だよね…)そういう考えもあったけど、守らなくても戦ならしょうがないというグレーゾーン。
大坂城落城の屏風をみてると、普通に女の人が男の人たちにかつがれてどこぞに運ばれていってるしね…。

私が現代に生きているせいで、さすがに自分の子供が乱取りにあうのは親としてだめだろうと思うので、政宗のとこに事前に子供を送った説をかたく信じてる…けど。
実際は子供は乱取りにあって、父親が生きてるのか死んでるのかもわからないまま、乱取られた先がたまたま片倉隊の下っ端の陣で、どこかで幸村関係者だという報告が重長にあがり、重長から政宗にあがっていったんだと思うなあ。幸村関係者なら徳川につきだせば褒美がもらえるし。政宗も「この子供は大坂の陣の後もなにかに使える」と思って温存しておいたのかも。

政宗は徳川を倒して、伊達天下を作る気まんまんだったそうなので、「この子供を対真田信之の弱みとして握っておいてもいいし、反徳川グループ作ってそこにいれたら無心で戦うだろうし…」とか、ただの伊達幕府用の素材になってもおかしくないよね…!
ただ、片倉重長の正室に幸村の娘が入ったことは、ほっとする史実で、少なくとも政宗は幸村の子供を自分の政略道具にする気はなく、最後まで面倒みてやろうという気持ちがあったんだなあというのがわかる。
乱取りした娘を正室にする意味、まじでないから…。重長はこのとき正室が亡くなってたから後添えをもらうのは自然なんだけど、そこを罪人の娘にするってデメリットしかないよねえ。でも、重長は梅を選んだし、もちろん正室にする以上、政宗のOKがなかったらできない話だし。
いやあ……、なんで政宗は幸村にそこまで尽くすんだ。
あまりにメリットなさすぎて、好きな人の子供をそばにおいておきたかったというピュアいラヴだったとしか思えないよ!